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(明日から妙楽寺での摂心会が始まる。)
いつものように、荷物で部屋は一杯だ。妙楽寺との交渉で、地代を安くしていただければ、倉庫を建て、毎回の荷物運びの問題は解決する。ダメでも年2回の搬出・搬入となる。初めてなので、やってみてのことだが、無事終わることを期待している。場所は交通の便もよく、買い物も便利。申し分ない。銭湯は、近くの風呂屋を利用する。台風の近づく11日は和歌山座禅会の依頼で、講演した。和歌山も禅会をいずれ目指すので、同じ高齢者の禅会として、どのように取り組んでいるかをお話した。座禅する会場が既にあるというのは、和歌山の超強みだ。新しい人の取り込みは、一朝一夕にはいかない。妙案もない。昨日遅くまで、日本・スコットランドのラグビー戦を見ていたが、するすると突破し、きれいにトライする背後には、一歩も引かぬスクラム、強烈なタックル、果敢に前に進む攻撃がある。ジャブが打たれ続けたうえでの空いた隙間だ。座り込む、地力をつけたうえで、いろいろなアイデア、試みをするということに落ち着くのだろう。台風を気にしながら夜遅く神戸に帰った。ブログはしばらくお休みする。木戸開善
 

 
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禅に興味を持たれ、このホームページをご覧頂いた皆様へ

禅の門覗いてみれば:#39 - 熟年世代への禅のすすめ #5(完)
 

【若者は成長であり、向上であり、挑戦者である筈である。

しかし実態は、雁字搦めの制約環境条件の中で、若者らしさを失い、

何事にも後ろ向きなネガティブ思考が

身に付いているのではないだろうか?

 

熟年者こそ、制約無しに、誰に憚ることもないのであるから、

本当の人生を味わいつつ、社会へ向けて次世代へ向かって、

自分たちの役割をしっかり果たす意気に燃えて

日送りしたいものである。

 

まさに熟年世代になってから初めて本当の人間的成長を始め、

向上心に満ち、あらゆる事象に挑戦的であり得るのではないか!

若いか年寄りかは実年齢とは関係ない。 「自分こそ最も若者らしいぞ!

死ぬ当日まで若者で居続けてやる!」という気概があるかないかである。

 

孔子も自分のことを表現して

「発憤忘食、楽以忘憂、不知老之将至也云爾」と述べておられる。

こうでなければならない、まさにその言や良しである。

現代の日本に活を入れ、次世代の若者に元気を与える役柄を担うべく、

熟年になってからの「人間形成の禅」のすすめをさせて頂きます。合掌

 

何も言うことはありません。同感です。このシリーズを終わります。

 

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禅に興味を持たれ、このホームページをご覧頂いた皆様へ

禅の門覗いてみれば:#38 - 熟年世代への禅のすすめ #4
 

【長い激動の社会生活の中で、それなりに道力(人間力三昧力)は付いている。

座禅をしてこころを落ち着けたいとかいう皮相的なことではなく、

熟年世代に必要なものは、道眼(見性の眼)を持つということである。

これは転迷開悟見性 成仏の禅でしか掴めないものである。

 

年を取ったら昔は骨董いじりが相場であったが、最近は趣味も多岐に亘り、

畑を借りて野菜作りを趣味とする人も結構多い。それも結構ではあるが、

それが趣味で終わるとなると、死ぬまでの時間つぶしになってしまう。

 

同じやるなら、趣味を道にまで深め、人間形成の禅と一緒に趣味の道を

深く味わい、人間形成の境涯を深めて趣味を深く楽しみたいものである。

そして生きている間に、一日の「生」を深く味わいたいものである。

 

見性することにより付いた道眼は、道に則った見識となり、

全ての趣味に生きるのみならず、

自分の人生の最終章のクライマックスを痛快にやりきるとともに、

次世代の「いい親父」にもなれるというものである。

 
「趣味で終わるとなると、死ぬまでの時間つぶしになってしまう。」
なかなか厳しい表現です。
やるならその趣味を「道」にまで深めたら良いとの激励でしょう。
脇道にそれますが、趣味について私はこんな風に考えています。
 
「趣味を楽しんで楽しく暮らせるなら、それはそれで良い。

しかしその趣味の賞味期限を考えておこう。

例えば、ゴルフ一筋に楽しむとする。

年を経るとともに、プレイ出来なくなるとか、ミスショットばかりで

つまらなくなる時が来る。生きがいにしていたゴルフを楽しめなくなって、

生きるハリを失うようではつまらない。
多くのスポーツ系趣味は、このような賞味期限がある。
その時に備えて生涯楽しめる趣味を合わせ持とう。」
 
禅は趣味と呼ぶべきものとは違いますが、何歳になっても向上することが出来、

また生涯の生きがいに出来ます。

賞味期限の無い禅をお勧めします。
多少、牽強付会になりました、悪しからず。   (仁龍)
 

 
 

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今を切に生きる。-スペイン旅行での失敗。

カテゴリ : 
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執筆 : 
kobe 2019/10/9 14:57
(7年ぶりの旅行。トランクのチェックを忘れていた。)
昔の重いトランクだ。両端の鍵を紛失していたので、真ん中のダイアル・キーが便りだ。
開く番号を忘れないように、当日まで開けたままにしていた。当日の朝、6時。満を持して閉めようとしたら、ダイアルが動かない。海に近いのでダイアルがさびていた。食料油を注いでも、動かない。トランクは、ベルトで締めるだけの、いつでも空いてしまうものになった。荷物はなくなるかもしれない。スペインは、存外寒いとの情報もあったので、機内持ち込みバッグに冬物を詰め、尿漏れパッドも入れ(前立腺がんの手術の後遺症がまだ治らない)、洗面道具も入れ、パンパンになった。そうだ。自転車のさび落としの油があったと思い出し、ダイアルに注いでおいた。
関空に到着、ダイアルをさわったら、3つのうち二つが動くようになり、何とか。危機を脱した。前の日に気付いておれば新品を買うこともできた。思わぬところに落とし穴がある。木戸開善
 

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禅に興味を持たれ、このホームページをご覧頂いた皆様へ

禅の門覗いてみれば:#37 - 熟年世代への禅のすすめ #3
 

【今年の夏の甲子園では、仙台育英高校が優勝戦まで勝ち進んだ。

そのチームを率いた佐々木順一郎監督の勝負強さの秘密はここにある

という面白い記事をネットで読んだ

 

「負けてもいいんです。目標は勝ち負けじゃない。勝つことが目標だと、

決着が付いたら終わっちゃう。それよりも『いいオヤジになれ』

『子供の相談に乗ってやれる大人になれ』の方がよっぽど

人生にも野球にも役立ちますよ」

佐々木監督の言葉は、いろいろな意味を含んでいるが、ここでは

「いい親父になる」 「若者の相談相手になれる古老」と

受け止めて考えてみたい。

 

勝ち負けを超えたものを求め認識するということは、

人間形成の道と軌を一にするものである。

古くから中国では「老(ロウ)」を豊かな経験を保有する人として尊敬する

意味を含ませて使う。深い叡智は長年掛かって蓄積されなければ

得られないものなので、老という字が使われてきたと考えられる。

熟年世代で、何割の人が「老」に誇りを持ち、

「老」の役割を認識しているであろうか?

 

精神的混乱状態の現代日本には、 「老」の役割こそが必要な時代である

と思われるが、実態はこの要請に逆行するように、誇りを持った「老」の

存在が薄くなっ てきているのではないか。

戦後70年、くぐり抜けて来た高度成長、偏差値教育、バブル崩動から、

成功と失敗のその根底にある、あらゆる時代に共通する大切なものを冷静に

見極めて、若者へ次世代へと語り継ぐ「老」の役割は極めて重要である。

 

誇りを持った「老」というのは、いわゆる社会的に成功したからという

ことではない。道眼を見開いて過去の人生をニュートラルに観て、失敗も

成功もその一つ一つを肯定的に納得しているかどうかではなかろうか。

成功にしろ失敗にしろ、自分の経験を個人の好き嫌いから離れて語ることが

出来れば、受け止める未経験の者(若者)にとっては素晴らしい宝となる。

卑近な話、同じ海外経験の話が、自慢話になるか、未知への開示の話に

なるかは、その話す人の境涯による。古老の境涯になれば若者から

尊敬され慕われるけれども、年だけ取った子供であれば、

敬して遠ざけられると云うことになる。

 

人生経験の整理整頓価値付けの前提として、どうしても道に即した

見識がなければならないし、チッボケな自我が大きな自我に換骨奪胎

されていなければ 「古老」にはなれない。
 
拝聴! 年配者の役割とは何かと、時々自問自答しています。
 
著者プロフィール
丸川春潭(本名/雄浄)
昭和15年生まれ。大阪大学理学部卒業。住友金属 工業技監、日本鉄鋼協会理事を歴任。

元大阪大学 特任教授。現在、中国東北大学名誉教授。工学博士。
昭和34年、人間禅立田英山老師に入門。現在、人間禅 名誉総裁師家庵号/楳光庵
丸川春潭 に対する画像結果
 
 

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夕暮れ時秋鹿の遠吠えを聞く。ピョーンと雌を呼ぶ。

恋なんだけど悲しい響きだ。妻や子を亡くしたよう。

ここで美味しい秋鹿の純米吟醸がほしいのだが元酒屋のコンビニが閉店しかなわない。不便になる一方だ。

高校の同級生、共にTだが昨年暮れ、最近と亡くした。高校時代の学年祭の時代劇で共に主役を務めた。体格もルックスもよかった。人生に悔いはないと思う。

懐かしい人が段々消えていくのが老後というものだろう。与えられた命、微々たりと言えど仏道を行じることで人の役に立つように使いたい。木戸開善

 


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禅に興味を持たれ、このホームページをご覧頂いた皆様へ

禅の門覗いてみれば:#36  熟年世代への禅のすすめ #
 
【一般的に50歳代までは「死」というものをちゃんと正面に据えて

考えていないが、定年を過ぎ熟年になるにつれて、 「死」と向き合う

ことになる。これで初めて地に足が着いた人間らしい生き方が

始まると云っても良いのではないか。

すなわち健康で元気な間に「死をちゃんと捉える」ことが大切である。

生と死という対極にある事象に共通する絶対の切り口を、はっきりと

確認することが必要であり、それができるのが人間形成の禅である。

死は人生の中で最も大切な行事であるとともに、死があるからこそ

死を超えるものを、生きている間に掴むことができる。

 

それでは死を原点に人生をはっきり掴んだ熟年の目に見える世界は

どう輝いているのであろうか。

自分の過去を反省する場合、思い出や出来事を「嫌い」とか

「好き」とかに色づけて思い出し、あのことがなければ自分の人生は

もっと良くなっていたのになどと悔やんでみたり、トラウマを作ったり

するのが一般的である。そしてもう済んでしまっている過去の出来事に、

精神的に現在及び未来が引きずられることになる。

 

人間形成の禅の観点からは、過去の半生の全ての出来事を好きとか

嫌いとか、良かったとか悪かったとかと判断して色分けすることなく、

その過去の出来事をそのまま事実として受け止め(禅では正受と云う)

どんな不幸な出来事も嫌という感情で受け止めず、自分の人生にとって

掛け替えのない必然であったと受け止めることが出来る。

こうなると良いに付け悪いに付け、客観的に反省でき、

それを教訓として未来に生かすことができる。

 

定年になり熟年世代になった時、人生の総仕上げの時期到来と受け止め、

これからが一回しかない人生を最大限に意義づける正念場であると

取り組んで行きたいものである。


「どんな不幸な出来事も嫌という感情で受け止めず、自分の人生にとって
掛け替えのない必然」、そんな心境までには徹底出来ていませんが、

悔いの残っていたことも、

当時の自分としては出来るだけのことをやった結果であった。悔いる必要はない

と意識がいつしか変わり、大半の悔いは解消しました。

そんな経験もあり、共感出来ました。

 

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映画[帰らない二人]を見た。
 
ストーリーよりも現在の中国を見たかった。服装はシャツとズボン。道路は舗装してない。街を離れたところの風景だ。
昭和32年頃と同じだ。高度成長も終わっているので地方との格差が大きいということだ。
経済をひっぱるのは、新幹線人のいない広大な駅、軍備拡張、内陸部にも広がるIT他への投資。
ごく普通の人々は家族の絆を大事にし、関羽信仰の義理人情に生き、何より生きることに貪欲したたかであることがよくわかる。
民は強い。国は綻びはじめていると感じる。      木戸開
 
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禅に興味を持たれ、このホームページをご覧頂いた皆様へ

禅の門覗いてみれば:#35  熟年世代への禅のすすめ #1
 
人間禅では年4回「禅」という会誌を発刊しています。平成27年10月号の
巻頭言に、当時の総裁師家(現在名誉総裁)の丸川春潭老師が書かれた
「熟年世代の「人間形成の禅」のすすめ」という記載があります。
これを読んだときに、その通りだなと共感しました。
私の感想も交えながら、何回かに分けて紹介いたします。
 
【若者は前へ前へと進むものである。
過去を振り向いたり、やって来たことを反芻することもなく前進するのが、
仕事を持った現役世代である。
しかし定年を迎え熟年の域に入ると、自分の半生を振り返って、
残りの人生をどう生きて行くかを考えるようになる。
この問題を先送りしていた人も、必ず、
人生には死という終わりがあるということに直面し、
()を原点に今を考えるのではなく、
死を原点に今を考えるようになってくるものである。
 
私の場合は、60歳過ぎて身近な親族知人が亡くなりことが多くなり、
死を原点に今を考えるようになりました。
人それぞれでしょうが、意識するのがどんな遅い人でも、そろそろお迎えが
来るのかと、最後は思うのではないでしょうか?

 
 

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山小屋には疲れをとるためとか逃げこむために行っていました。
最近は違います。禅は呼吸だと思っています。
お茶ですら死地に向かうような気持ちになります。
禅の深い呼吸は自然と一体のものです。
風、温度差、朝晩の運行、呼吸と言えます。もっとも、こちらの呼吸が全体に広がるのでしょうが。
そんな呼吸をしようと山小屋に向かっています。
去年と同じく、アケビが実をつけていました。     木戸開善
 

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